野洲川

 

新幹線で東京から京都に向かうとき、比良・比叡山、琵琶湖を西に見て、東には野洲市の近江富士を過ぎたあたりに大きな川を渡る箇所があります。これは、かつての天井川の南流と北流に代わる新しい野洲川です。1979年(昭和54年)に通水されました。流域の守山市は全国でも指折りの豊かな街になっています。地球環境の変化・気候変動の議論の中で、河川改修というと、堤防のかさ上げを挙げられ、より危険になる、との議論が先行する傾向があります。草津川放水路、大河津分水など、放水路事業は、洪水時の河川の水位を抜本的に低下させる事業であることを一般の方々にも理解していただきたく。少しずつ整理することにしました。

 

以下、琵琶湖河川事務所の「野洲川放水路通水40周年」からの引用です。

野洲川は、古来より「近江太郎」とも呼ばれる暴れ川であり、周辺に住む人々はたび重なる洪水氾濫のため 多大な被害を受け続けてきました。野洲川の氾濫の発生を文字にとどめている最初の文献資料は、1503 (文亀3) 6月の氾濫を記す野洲市比江の長澤神社の『縁起大略』で、野洲川の濁流に境内の長澤池が呑 まれ、本殿が川に没したとあります。過去の文献によると1503(文亀3)から明治まで堤防の決壊による野洲川の水害は少なくとも35回は発生しており、平均するとほぼ10年に1度の割合の発生率になります。1868(明治元年)からも野洲川放水路が建設されるまでにも水害が発生しており、小規模のものを含めると4年に1度の割合で水害が発生していたことになります。

1953年(昭和28年)9月の水害をきっかけに、洪水ごとに災害復旧工事を繰り返すのではなく一定の計画によって野洲川を根本的に改修し安心できる川にして欲しいという願いが地域住民のあいだで高まり、1954年(昭和29年)に関係の13町村によって野洲川漏水対策既成同盟(のちに野洲川改修期成同盟会、野洲川改修促進協議会)が結成された。その後、滋賀県を含めた国への働きかけと関係機関との協議の結果、1958年(昭和33年度)から国の直轄事業として調査が開始され、1963年(昭和38年)に野洲川改修の全体計画が策定されました。その後、用地問題や移転先などについて何回もの話し合いを経て、1971年(昭和46年)129日に改修工事が開始されました。工事は、8年の歳月をかけて行われ、1979年(昭和54年)62日に野洲川放水路通水式が挙行され、南流と北流に代わる新しい野洲川に水が流れ始めました。

<野洲川放水路計画>

100年に1度起こりうる大洪水を対象に4,500m3/sの河道を建設することとし、堤防法線幅330m、低水路幅210m、高水敷幅両岸52mの河道を計画、7.2kmの取付部には、3.5mの落差を有する床止を設ける計画を行いました。