小熊 英二、生きて帰ってきた男――ある日本兵の戦争と戦後、岩波新書 2015/6/20

著者の父親、小熊謙二氏1925(大正14)年生れの、人生の記録。19歳で関東軍第一方面軍に配属。3年間のシベリア抑留を経て帰国、3年後、肺結核で国立内野療養所に入院、4年後退院し、40歳の時に立川スポーツ店株式会社設立。その後、57歳のときから多摩川丘陵の自然を守る会との活動など社会活動を行う。戦後東京郊外で生きた方なので、小平に住んでいる身としては親近感が湧く。また、わたしの父親は大正12年生まれの同世代、昭和・平成を生きた人に同じものを感じます。

アマゾンの書評から。

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既に数多くの好意的なレビューがあるので、文献的に論じたい。まず小熊謙二氏の年譜を記す。年齢は満年齢とするも、月日の記載がないところでは1歳の誤差がある。

1925.10.30 北海道常呂郡佐呂間村に生まれる。父は行政書士

1930.2.7(4歳)母芳江結核で死亡

1932.7 (6歳)東京で菓子屋を営む母の父母・片山伊七・小千代に預けられ、杉並区立第三小学校へ編入。同年片山家は菓子屋から天麩羅屋に転業し、高円寺から中野区の借家に転居。謙二は電車通学する

1938.04   (12歳)  早稲田実業に入学

1942.12   (17歳)  早稲田実業を繰り上げ卒業。

1943.01   (17歳)  富士通信機製造(株)に職員として入社

1944.11.25 (19歳)  徴兵 12.28頃、牡丹江郊外の関東軍第一方面軍の逓信第十七連隊に配属

1945.08.10 (19歳) 前線から牡丹江へ列車で避難。奉天で終戦。

1945.09.20頃 ソ連の捕虜となる 10.28シベリア連邦管区チタ州の州都チタに到着。第二十四地区収容所第二分所に配属

1948.07下旬 (22歳) 帰国命令を受ける。08.20ナホトカ経由、帰国船「大都丸」で真鶴港に到着。父の実家の新潟に着く。富士通信機製造に復職叶わず休職を持続 12月末新潟に戻る

1949.01(23歳) 新聞広告で見つけた新潟市の「今枝ハム」に入社 3月富士通信機製造を退社。5月、市内の証券会社に転職 8月豚肉仲買「闇屋」に転職

1950.01  餅菓子屋に勤める、職安から製版会社に就職

1951.01(25歳) 肺結核と判り、製版会社を休職。3ヶ月間の自宅療養を経て、6月国立内野療養所に入院。52年5月胸部成形外科手術を受ける。

1956.5(29歳)退院。入院前に勤めていた製版会社に再就職、仕事仲間の原健一郎と同居。出版社や工具店を転々とする

1957.12中旬 学芸大学で事務職員をしている妹の秀子を頼って上京、四日市街道の秀子の3畳間のアパートに同居

1958.01 「株式会社立川ストア」スポーツ部門に就職、外商販売員に。秀子とともに転居を繰り返す

1959.09 昭島市第二種都営住宅(第六都営住宅)に当選し転居。新潟にいる父・雄次を呼び寄せて同居

1961.11 (37歳)秀子の友人・藤岡寛子(32歳)と結婚 

1962.05 広島に預けられていた寛子の連れ子・剛一と同居。06秀子結婚。07雄次新潟へ戻る。09英二誕生

1963頃 「チタ会」を設立、65年会誌発行

1966.01 (40歳) 同僚の大木と二人で独立し「立川スポーツ店株式会社」設立 

1969.01  武蔵村山市に自宅新築

1972.02  剛一自宅屋上から転落死。自宅を売却。立川市のマンションに転居。

1975 (50歳)八王子のスポーツ用品店を買い取り、支店を出す。

1978  (53歳)八王子市に新築。

1982~ (57歳) ささやかな社会活動を始める。アムネスティーインターナショナル、「多摩川丘陵の自然を守る会」、NPO「加多厨」、「不戦戦士の会」等

1991.07  抑留地のチタを訪問。小さな慰霊碑を建立。

1996.9  シベリア抑留韓国中国籍軍人の保証訴訟に原告団に加わる 97年.01 第一回公判、同年05.13第二回公判 2001年東京高裁、2002年最高裁で請求却下

1998   (73歳)立川スポーツ(株)解散

2002   (77歳)脳梗塞で倒れる 2015年寛子死亡

2010.06 民主党政府により「シベリア特措法」が成立。

2015.06 (90歳)存命