吉田 俊純(編集)、常陸と水戸街道、〈治水と開発)

常陸と水戸街道 (街道の日本史) (和書)

20110218 22:49

吉川弘文館 20018

 

雪村(せっそん)

徳川斉昭(なりあき)

戸田忠敞(ただあきら)

藤田東湖、

 

P190

洪水と開発

茨城県南部地域は水と平地に恵まれているため、自然環境のうえからは、米作地帯として発展できる条件下にあった。しかし、霞ヶ浦・北浦の二大湖水と利根川・鬼怒川・小貝川をはじめ、多くの河川を抱えていることによって、水害対策が農政だけではなく県政全般の最重要施策になった。このため治水費が県財政を圧迫し、治水費負担の重圧が、1882(明治15年)年の県会における山岳党(県北部選出議員)と河川党(県南・県西部選出議員)との分裂騒ぎとなって表面化したことはよく知られている。

霞ヶ浦、北浦周辺地域と利根川下流域が水害の常襲地帯と化したのは、承応(じょうおう)3(1654)年、江戸の治水と江戸周辺の新田開発を容易にするために、江戸湾に流入していた利根川と東に移して、直接、太平洋に注ぐようにし、その後、谷原新川(やはらしんかわ、現在の新利根川)を開削して霞ヶ浦と結び付けたときからであった。これによって霞ヶ浦は、利根川の洪水調節のための遊水池となったのである。とくに利根川よりも低位にあり、多くの川が流入する霞ヶ浦沿岸地帯は、灌漑・排水の施設が十分でない段階にあっては、降れば水害、照っては干害を蒙り、明治期の水害は、記録にあるだけでも14回、およそ3年に一回の割合で襲ってきた。

このように、県南西部地域が水害の常襲地になったのは、江戸を洪水から守るためであった。しかも、日露戦後における県域の産業の発展を阻害した要因のひとつは、県予算の10%を占める利根川と渡良瀬川の治水費が、勧業費に充当すべき資金の大半を食い潰したことにあった。

日露戦後になると、治水と開発が具体的に始動しはじめた。1906(明治39)年に「霞ヶ浦治水工事を達成すること」「本県中部は耕地整理に適するので奨励すべきこと」などを盛り込んだ10項目からなる「県治に関する意見書」が県会から提出された。11年には10年間に生産を2倍に引き上げることを目的とした「産業に関する県是」が県当局によって策定されている。しかし、実際に農業生産力の増強を図るための事業が具体的に動き出すのは、09年に、耕地整理法(1899年公布)が全面改正されてからであった。都市の急激な膨張によって生じた食糧問題に対処するため、土地所有者の三分の二の同意があれば田区整理に着工できるとした耕地整理法が、灌排水事業を主な目的とするように改正されたのである。これにより、県域で耕地整理を希望する地区は、12(大正元)年までの真壁郡大宝騰波ノ江(まかべぐん、だいほう、とばのえ)ほか一町五カ村組合の1021ヘクタール、稲敷郡金江津村長竿村(いなしき、かなえつ、ながさお)組合の487ヘクタールなど71地区、総面積は1万2千ヘクタールに達した。

 

干拓事業

霞ヶ浦において、近代的用水施設をともなう干拓事業が本格的に開始されたのは、1918(大正7)年の米騒動が画期となっている。米騒動の翌年、すなわち19年に開墾助成法が制定され、次いで21年に公有水面埋立法が公布されたことによって、埋立・干拓事業に対して、法的・財政的裏付けが与えられたのである。

ここで、水田1万4千ヘクタール、畑地1万7千ヘクタールの造成が県によって計画された。中略、

こうして、大正期半ば以降、霞ヶ浦の干拓総面積は2500ヘクタールにも及び、干拓事業は、労力の軽減と農業生産の飛躍的増大をもたらした。その一方、関東大震災や昭和恐慌による資金難のため、農民が埋め立て権を売却したり、鰐川地区のように開墾会社(鰐川開墾株式会社)に一切の権利を委譲することなどが生じ、新たな寄生地主制の展開へと道を開いた。