藤田覚著、幕末から維新へ、(印旛沼工事)

幕末から維新へ 藤田覚著 岩波新書1526

 

P75:下総印旛沼の工事は、享保と天明年間の二度にわたり干拓による新田開発が試みられたが、いずれも失敗に終わっていた。天保14年(1843年)7月から、江戸時代3度目になる印旛沼工事が着工された。庄内藩など5大名が工事区間を分担し、利根川と印旛沼、印旛沼と検見(けみ)川(現、千葉市花見川区)までの間に幅10間(けん)(18メートル)の掘割(ほりわり)=運河を造成しようとした。つまり、利根川から印旛沼を経て検見川までの運河造成をめざしたのである。この工事の目的は、前2回が新田開発だったのと異なり、銚子→利根川→印旛沼→検見川→品川という、江戸湾を利用しないバイパス的な水運コースの開発であった。

産業の国家統制や海防策を説いた佐藤信淵(のぶひろ)は、印旛沼と堀割により内容(江戸湾)と東海(太平洋)を結べば、外国艦船によって江戸湾が封鎖されても軍事用と江戸住民の食料は確保できる。と主張していた(「内洋経緯記(ないようけいいき)」天保4年<1833>)。このような意見に影響をうけたと推測され、今回の印旛沼工事は外国船によって浦賀水道を封鎖され江戸への海運が途絶するという事態を想定し、その迂回路を造ろうとしたのである。難工事にもかかわらず8割ほど進んだ頃、台風による高波をうけて掘割が破壊され、水野忠邦の失脚とともに中止になった。

 

目次:

1 近世の曲がり角―維新の起点

(内外の危機と政治改革、対外的危機の兆し、天皇浮上の動き)

2 内憂外患の時代へ

(幕府政治の退嬰化、アヘン戦争の衝撃、対外的危機と天保の改革の始まり、内政改革の失敗)

3 近代の芽生え(学校教育の発展と朱子学・蘭学、民衆の知の発達)

4 開国・開港(続く異国船渡来と幕府・朝廷、和親条約と安政の改革、通商条約の締結、開港と民衆・幕府)

5 幕末政争から維新へ(公武合体運動の激化、政局を席巻する尊王攘夷運動、新たな国家への道)