松浦武四郎(1818〜1888)について
津市や札幌市に行くことが続き、また三鷹市も自宅の小平市付近であるなど、偶然の重なりで、それらの地に縁の深い、松浦武四郎を調べてみた。今年、2018年は生誕200年さらには、北海道の命名150年、その名付け親として、北海道を中心にさまざまな松浦武四郎イベントがなされている。
松浦武四郎の名を最初に知ったのは、JACIC(日本建設情報総合センター)の技術顧問になられた当時の月尾嘉男さんによる。東大を定年退職され、カヤックで全国の川巡りなど本格的な冒険をされ始めていたころである。テレビやラジオでも松浦武四郎のことを盛んに語っておられた。加藤秀俊さんの「メディアの展開」では、江戸と明治はつながっているとの主旨で、秋田で活躍した管江真澄など様々な江戸時代の人物が紹介されており、蝦夷地探検家の一人として武四郎のことにも触れられている。真澄・武四郎の2人とも絵がうまく、それらの絵は、現代の記録写真に相当する。
明治二年(1869)7月に政府は開拓使を設置。武四郎は開拓判官(長官、次官に次ぐ重要ポスト)に任じられている。開拓政策を進めるにあたり、武四郎は蝦夷地に替わる新名称を政府へ提案した。「北海道々名撰定上申書」には、日高見道(ひたかみどう)、北加伊道(ほっかいどう)、海北道、海島道、東北道、千島道の六案を挙げ、蝦夷とは古代の、「荒蝦夷」、「熟(にぎ)蝦夷」、「都加留(つがる)蝦夷」、つまり朝廷に従わなかった集団のことで、地名ではないとして六案それぞれの理由を記している。その中の「北加伊道」について、「東国で暮らす人びとは自らの国を加伊と呼ぶ」ことが「参考熱田大神縁起」の頭書に記されており、「アイヌは互いにカイノ-と呼び合う」としている。日本の北にあるアイヌの人びとが暮らす大地という思いを込めたこの「北加伊道」が「北海道」に字を改めて採用された。上申書に北海道と書かなかったのは、明治以前から北の海の世捨て人という意味で自らの雅号に「北海道人」を用いていたため、同じ文字を使うのはおこがましいと内部から批判や反発が出ることを考慮してのことだ。
武四郎が提案したのは道名だけではない。国名(のちの支庁名、現在の振興局名)、群名も、道名案とともに政府へ上申。地名はその土地の文化・歴史であるという立場でアイヌ語地名に基づき検討し、アイヌの人々が古くから暮らしてきた大地である証を残そうとした。
P71、山本命著、幕末の探検家・松浦武四郎入門、2018
松浦武四郎は、文化15年(1818)に、雲出川の右岸、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)の伊勢街道筋に庄屋の四男として生まれる。因みに雲出川を挟んで対岸の津市高茶屋には、あずきアイスで有名な井村屋本社がある。生家は見学でき、そこで聞いた話では、地元では最近まで知る人は少なかったそうだ。故郷に帰って住むことは無かったし、お金を持ち出し江戸へ放浪したり、借金の支払いをたびたび実家に頼んだり、不義理もあったようである。昔は次男以下のものは、人生の模索が激しかったのだろうと想像する。津の、石水美術館では、川喜田石水が、松浦武四郎と同世代の友人であり、終生支援していたことを知った。川喜田家は、すでに江戸時代に伊勢商人の豪商であり、のちに百五銀行を創設している。頭取で陶芸家でもあった川喜田半泥子やKJ法の川喜田次郎といった著名人を出している。
北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)に展示されている「東西蝦夷山川地理取調図、安政6年(1857)」は見る人を感動させる。図の説明には次のとおりある。「この地図は、松浦武四郎が幕府の命令で安政4年(1857)から3年がかりでつくりあげたものです。経緯1度を一枚とした26枚の地図をあわせたものです。島の形は伊能忠敬、間宮林蔵、近藤重蔵等の測量の成果を取り入れ、そのなかに山脈、河川、湖沼、地名、集落、道路など内陸の状況を詳細に書き込んである。武四郎の長年の超人的な調査測量探検の成果をしのばせ、近世地図作成史上の一大傑作です。」 伊能忠敬の地図には日本の輪郭、海岸線が中心で内陸は空白な印象が否めないが、多くの山川をアイヌの人と巡り調査した武四郎のこの北海道地図のち密さと地名の多さに、先人の資産を基にして知見が深まっていくことの力強さを感じる。
「聞いた音そのままをカタカナで表した9800に及ぶアイヌ語地名からは、この土地に暮らしてきた人々の歴史と文化が感じられ、決して未開のちでないことが分かる」(P67、山本命著、松浦武四郎入門)
武四郎が1886年に神田五軒町の自宅の片隅に造った一畳敷の書斎が、野川に近い東京都三鷹市の国際基督教大学敷地内にある実業家・山田敬亮の別荘「泰山荘」の茶室に移築されている。松浦家から紀州徳川家、日産自動車重役(山田敬亮)、中島飛行機社長へと所有者が移り、現在、国際基督教大学に引き継がれている。現在の三鷹や国分寺、小平などのJR中央線沿線に住まう多くの家族は、おじいさんの世代が地方から出てきた世代で、孫にあたる世代は、もはや田舎を持たなくなってきているようである。そこに、武四郎の故郷との関係よりもますます薄くなってきている地方と東京との関係性が見て取れる。
武四郎は、晩年まで探検家魂を持ち続け、終焉の地を求めたかのように、68歳から亡くなるまで、十津川の源流域である大台ケ原探検を行っている。
「ところで、わたしはこれまで対象となっている「北方」のことを「蝦夷地」というやや歯切れの悪いことばで呼んできた。その「蝦夷地」の中には現在の「北方四島」やカラフトもふくまれている、とわたしは理解するが、中核になる島はいうまでもなく「北海道」である。そしてこの島をこのように名づけたのは、松浦武四郎であった。幕末から明治初期に数次にわたって北方に旅し、一時は明治政府の官僚として現地事務所で探査にしたがった武四郎はこの島を「北加伊道」と表記した。ここにはアイヌ語でみずからを指す「カイナー」という音が生かされ、それと和語、漢字表記を勘案して「北海道」とすることを提案した。その北海道各地の地名とその表記もおおむね武四郎が考案したものであった。」
(P156、加藤秀俊著、メディアの展開)
参考文献:
月尾義男の洞窟(北海道二十一世紀):
http://www.tsukio.com/essay_kensetsu00.html
加藤秀俊、『メディアの展開』、2015
山本命、『松浦武四郎入門: 幕末の冒険家』、 2018
ヘンリー・スミス、『泰山荘―松浦武四郎の一畳敷の世界』、国際基督教大学博物館、1993