五百旗頭真著、米国の日本占領政策下、中央公論社、1985
128:ドイツに対する政策が、ローズベルト大統領直接の介入を早くから受け、「農牧国家」への回帰や「ドイツ分割」といったブランによって彩られたのと較べれば、対日占領政策ははるかに穏健にして実際的なものであった。
258-259:米国政府では進みえなかった地点に、トルーマン政権は英国政府に促されることによって踏み込むことができた。かつてローズベルト大統領が健在であったころ、チャーチル首相の「無条件降伏」に対する戒めの言葉は即効性を持たなかった。しかし、トルーマン政権の政策転換にそれは重要な意味を持つことになった。それよりも限られた度合においてであるが、蒋介石の国民政府も日米を結ばせる条件を作るうえで一つの役割を果した。カイロ会談において、ローズベルト大統領に対し琉球の領有を辞退したのみならず、天皇制をめぐって日本国民に政治体制選択の自由を認める立場を説いたことは、一九四三年秋の時点で米国政府が日本との将来の合意を不可能にしてしまうような逸脱を阻止する意味を持っていた。ソ連は大戦末期にそれらと逆方向に影響力を行使しようとしたが、米ソ関係が悪化するなかで、米国政府が好意をもって採りあげる状況になかった。
戦後四十年を経た今日、なお「ヤルタの遺産」とその再検討が語られる。しかしヨーロッパはさておき、日本に関する限り「ヤルタ」はかなりの程度まで「ポツダム」においてすでに再検討され修正されていた。もちろん帝国とし ての日本の版図は分解され、北方領土問題のようなヤルタ協定の傷跡も残されている。また徹底した日本の非軍事化と、通常の軍事占領の範囲をはるかにこえる政治・社会・経済の全面的変革が、結局のところ占領下で遂行された。 その意味で、勝者の敗者への介入度は控え目なものではなく、なお歴史的に見て例外的な高さにある。にもかかわらず、その介入が敗者に対する処罰的文脈において行われなかった点が重要である。
対日処理方針が米国政府の手で統合された大戦末期には、倒れた敵国の持ち物を勝者たる主要大国が協調の精神において分け合う〈垂直原理〉の枠組が、すでに支配的精神ではなくなっていた。『ポツダム宣言』は、積極的にいえば、勝者の敗者に対する歴史の英知に支えられたステイツマンシップによって、消極的にいえば、より大いなる新たなライバルソ連への警戒心から敗者を自身の側に引き寄せる考慮ゆえに、日本の再生を可能にする穏当な条件を提示したのである。 「ヤルタ」が「ポツダム」によって克服されていたことは、戦後日本の国際復帰を容易にし、戦後の日米関係を安定的にした。『ポツダム宣言』が示した戦後日本の非軍事的通商国家の〈設計図〉に沿って、戦後日本は経済復興をとげ、国際復帰し、そして発展をとげた。多少の振幅はあるにせよ、四十年を経て基本的にその枠組が有効であることは驚くべき事実である。米国の占領政策が、幾多の問題点や暗部を含んでいるにせよ、全体として「過去を問う」処罰的性格よりも、現代史の趨勢に沿った民主化改革と戦後の国際環境に適合的な経済国家の建設を志向していたことは、戦後日本の生存と繁栄を可能にした。また米国がそれを促し支えたことが、日米関係の長期的安定の基盤をなした。その意味で、米国の日本占領政策という形で用意された〈戦後日本の設計図〉は今も廃棄されていないのであり、 日本が今後の歩みを考え直す必要に迫られれば迫られるほど、もとになったこの〈設計図〉の意義と限界が問題にされつづけるであろう。
下卷目次
第四部 統合ーポンダム宣言による終戦
第七章 国務省原案の成立 4
一 戦後計画委員会と極東地域委員会 4
二 陸軍省民政部――軍部の占領準備 13
三 「米国の対日戦後目的」と「占領軍の国家的構成」 22
四 グルーの登場と天皇問題。 30
五 占領下の日本統治機構 41
六 戦後計画委員会による修正 51
第八章 ヤルタからポツダムヘ 70
一 ヤルタ秘密協定 72
二 人と制度――「終着駅」に向って、 94
三 SWNCCにおける対日基本政策の形成 117
第九章 ポツダム宣言―上からの革命 131
一 転回点―一九四五年春駅 131
二 グルーの行動開始―対日条件提示 152
三 ポツダム宣言の成立 174
四 日本分割占領案と平和的進駐作戦 204
五 日本の降伏と初期占領政策の決定 227
注
索引
上卷目次
第一部 新世界を求めて――戦後計画の起源
第一章 歴史の教訓 第二章 戦後計画のための政府内環境
第二部 「上から」の方針|ローズベルト構想
第三章 無条件降伏論
第四章 ローズベルトの東アジア構想
第三部 「下から」の対日計画|国務省知日派
第五章 日本専門家の招集国務省と外交関係協議会
第六章 対日戦後計画の原型